〈まとめの論考:1〉
連続ゼミナール「〈所有〉からアートと社会の関係を考える」
コミュニティとアソシエーション
柴田葵
この1年間の「所有」ゼミナールを振り返ると、度々議論の対象となったものとして「コミュニティ/アソシエーション」概念の問題がある。この二つの概念は狭義には、マッキーヴァー以来、対立概念として位置づけられているものであるが、社会における実際の用いられ方は、狭義の定義から大幅にかけ離れたものであり、混乱が生じやすい。例えば、Web上のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)における「コミュニティ」は、日常感覚的には違和感のない名称であるとしても、関心や目的を同じくする者同士が機械的に集合した集団を「コミュニティ」と称することは、定義上無理があるだろう。このように、実際の社会では「コミュニティ」の語が曖昧に濫用されている傾向がある。また、ゼミで頻繁に参照された柄谷行人の「アソシエーション」概念については、柄谷の言う「資本=ネーション=ステート」のシステムに対抗する、第三の組織としての含意を込められた概念であって、必ずしもコミュニティの対義語としてのアソシエーションではない。さらに、コミュニタリアンの言う「コミュニティ」は、自由主義(リベラリズム)への対抗概念を背景としたもので、また別の意味合いを持つ。
従って、コミュニティ/アソシエーションについては、民衆的なパロールや政治的見解とは一旦切り離して、まず狭義の概念を検討する必要があるだろう。そこで、コミュニティの理論を最初に確立したマッキーヴァー(R. M. MacIver, 1882-1970)が、『コミュニティ』(1917)の中で提示している、古典的に知られている図式を参照することにしよう。
マッキーヴァーによれば、コミュニティとは基礎的な共同生活の条件を分有する集団である。それは、風習・伝統・言語などその集団に独自で共通の諸要素を持ち、具体的には「村とか、町、あるいは地方や国とかもっと広い領域の共同生活のいずれかの領域」*1がコミュニティに相当する。
それに対して、アソシエーションとはコミュニティの中から派生するものである。つまりコミュニティの中から、特定の関心や目的を共有する人々同士によって、その目的のために組織される集団がアソシエーションである。ゆえに、アソシエーションは「第二次集団」、「派生集団」「機能集団」「(自発的)結社」とも訳される。共同生活の中から派生するために、マッキーヴァーはアソシエーションを「コミュニティの機関(agencies)」とも呼んでいる。
さて、ここからが問題なのだが、マッキーヴァーがアソシエーションの具体例として挙げているのは、家族・学校・教会・営利組織・政府・国家などである。これを聞いて誰もがすぐさま疑問を覚えるのは、「家族」と「国家」であろう。これは、マッキーヴァー自身も、コミュニティの要素を含む特殊なケースとして例外化しているものの、そう言われてみれば、通常「地縁」と同様に共同体の代表的形態として想定されている「家族」も、コミュニティ/アソシエーションの両側面を持った集団類型であることに気付かされる。家族と言っても、親子関係中心の「定位家族(family of orientation)」の視点から見た場合は、コミュニティ的な要素が強いが、夫婦関係中心の「生殖家族(family of procreation)」の観点では、(あくまでマッキーヴァーの言う意味での)アソシエーション的な要素が強くなると言えるだろう(ただしこれは、結婚や出産が両性の自発的な合意に基づいたものであることを前提とする)。
このように考えると、職業や居住地選択の自由、思想信仰の自由、国籍の離脱・変更の自由などの自由権が基本的人権として認められた社会において、あらゆる選択の自由が保障されている中で、逆に、アソシエーションではない集団を探す方が困難に思われる。
この概念の錯綜はおそらく、コミュニティ/アソシエーションという、一見妥当な二項対立が、実は明確な対立ではないということに起因するのではないか。マッキーヴァーの議論で両者を分かつものは、その集団が「基礎的な共同生活の条件」を共有するか、「特定の関心や目的」を共有するか、という点であったが、この二つの区分自体がそもそも、共時的に対立しているというよりはむしろ、歴史的に見た人間の集団構成様式の、異なる二形態を示しているとした方が妥当なのではないだろうか。
するとつまるところそれは、かつてテンニース(F. Tönnies, 1855-1936)が、後のコミュニティ/アソシエーションに引き継がれる対立概念として提示した、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの概念に限りなく近いものになる。人間の「本質意志」によって結合した有機的な統一体であり、人々が相互の絆や愛情をもって人格的に結びつくのが「ゲマインシャフト(Gemeinschaft)」:共同社会であり、それに対して、利害関係を基準とする「選択意志」によって機械的に結びついた集団が「ゲゼルシャフト(Gesellschaft)」:利益社会である。テンニースは、両者は同時代的に併存するものであると同時に、歴史的に見て、前近代におけるゲマインシャフトの優位から、近代におけるゲゼルシャフトの優位に推移・進化してきたものと考えた*2。
テンニースの主張するように、近代以降の社会はそもそも、ゲゼルシャフト=アソシエーション優位の社会である。たしかに、前近代から近代への過渡期においては、マッキーヴァーの言うように、コミュニティからアソシエーションが二次的に派生する状況が起こっていただろう。しかし、現代のように高度なアソシエーション社会においては、まずコミュニティありきでそこからアソシエーションが派生するとは考えにくく、むしろ逆の事態の方が想定しやすい。
例えば、会社というアソシエーションは、それこそ人々が特定の利益と目的のために機械的に結びついた組織であり、大企業ならばお互いに顔も知らない従業員同士が巨大なオフィスの中で働いている。しかし、同じ部署であるとか、あるいは物理的に仕事場所の近い人々は、言ってみれば同じ空間で生活の多くの時間を共有する集団である(平均的な勤め人の場合、家族と過ごす時間よりも同僚との時間の方が長いことも珍しくない)。そこでは、人間関係の濃密さによって、利害や目的を超えたある種の連帯感や絆・友愛が生じることもあるだろうし、独特の行動様式やものの考え方などが共有される場合もある。言わば、アソシエーションの内部にいくつものコミュニティ的な集団(もっとも、これを純粋なコミュニティと呼んでよいかどうかは議論の余地がある)が派生している状態で、同じことは学校などにも当てはまるだろう。
ここで、最初に言及した「現実の社会におけるコミュニティ概念の濫用」という問題に戻ることができる。我々が感覚的に、学校を「学びの共同体」と呼んだり、Web上に形成される人の集まりを「コミュニティ」と呼びたがるのは、選択の自由が隅々まで行き渡ったアソシエーション社会における、コミュニティに対する期待やノスタルジー(あるいは幻想)の現れではないだろうか。ただし繰り返すように、テンニースの主張や、マッキーヴァーの議論では家族や国家をもアソシエーションに含めざるを得ないことが示す通り、現代社会において、人々の生活の基盤となりうるコミュニティの存在する余地はごく限られている。それは、それこそSNS上の「コミュニティ」のように比喩的な意味であったり、先述のようにアソシエーションの内部にコミュニティ的な集団を派生させる、といった形態を取ることになるだろう。もっとも、このように擬似的なコミュニティを形成せざるを得ないことは、現代社会の必然であって、そのこと自体への批判を浴びせるのは筋違いというものだ。我々は、コミュニティ/アソシエーションを同等の対立概念であるかのように捉えがちであるが、両者の関係は現代において全く不均衡であり、アソシエーションの中でかろうじて共同体的なものが生き永らえているという認識から出発すべきではないだろうか。
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*1 R.M.マッキーヴァー著 ; 中久郎, 松本通晴監訳『コミュニティ : 社会学的研究 : 社会生活の性質と基本法則に関する一試論』ミネルヴァ書房 , 1975
*2 テンニエス著 ; 杉之原寿一訳『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト : 純粋社会学の基本概念』岩波書店
, 1957
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